属人化は静かに積み上がる。優秀な人の知恵を、会社の未来へ残すために
「あの人がいるから大丈夫」という言葉の裏側
「この装置の調整は、田中さんにしかできません」「あのお客様は、鈴木さんでないと話が進みません」「経理のことは山本さんに聞いてください」。会社の中で、こんな言葉を耳にしたことはないでしょうか。どれも信頼を表す言葉です。長年の経験を積み、周囲から頼られる人がいるのは素晴らしいことです。しかし経営者は、同じ言葉を別の角度から聞く必要があります。「田中さんが休んだら装置は止まる」「鈴木さんが退職したら顧客との関係が切れる」「山本さんが不在なら資金の状況が分からない」。つまり、称賛の言葉がそのまま経営上の警告にもなるのです。
例えば、年商4億円の製造会社を想像してください。勤続25年のベテランが、見積もりから設備の微調整まで一人で担っています。ある日、家族の介護のため長期休暇が必要になったらどうなるでしょう。会社は、その人を責めることなどできません。休む権利があるのは当然です。それでも仕事が止まるなら、問題は本人ではなく会社のつくり方にあります。 平常時には強みに見えていたものが、突然弱点として姿を現す。属人化の怖さは、事故が起きるまで危険が見えにくいところにあります。
属人化は、真面目な人と優秀な人がつくってしまう
属人化は怠慢から生まれるとは限りません。むしろ仕事熱心な人ほど、自分で処理した方が早く、確実だと知っています。教えるには時間がかかります。後輩が失敗すれば、手直しも必要です。今日の納期を守ろうとすれば、つい自分でやってしまうでしょう。その判断は今日一日だけを見れば合理的です。しかし一年、三年、十年と繰り返せば、経験は本人にだけ積み上がり、組織には残りません。
人間の心理も無視できません。「自分にしかできない」は誇りであり、居場所でもあります。会社も「あの人に頼めば安心」と考え、教育や標準化を後回しにします。さらに評価制度が、本人の処理件数や売上だけを褒め、後輩を育てた成果を評価しなければ、仕事を抱える人が得をする仕組みになります。社員に「もっと教えなさい」と言う前に、教える人が報われる会社になっているかを確認するべきです。
私自身、若い頃は誰も引き受けない仕事を積極的に引き受け、深夜三時まで働く「一人ブラック」の状態になったことがあります。仕事量をこなすことで視座が上がり、能力も高まりました。社内で自分の立場を築く意味もありましたから、あの時期をすべて否定するつもりはありません。ただ、個人が成長するために必要な時期と、組織が成長するために必要な仕組みは別物です。 自分が何でもできるようになることと、会社が誰か一人に依存しなくなることは、同じではないのです。
入社一か月でイタリアへ。経験は、最初は人の中にたまる
半導体製造装置メーカーに入社して一か月ほどで、私は「イタリアへ行ってこい」と長期出張を命じられました。英語ができないリーダーの補佐として渡航し、朝は顧客とのマネージャーミーティングで進捗や必要事項を確認し、その後は現場で先輩から装置の立ち上げを学びました。夜には、厚さ十センチほどの顧客用マニュアルを英文・和文合わせて八冊持ち込み、必ず一時間は読み込んで勉強しました。半年後には、一人で装置を立ち上げられるようになっていました。
この経験から、努力によって専門性を獲得する価値を私はよく知っています。だから「属人化をなくす」と聞いて、熟練者の価値まで否定する考えには賛成できません。問題は、苦労して得た知恵が本人の中にしか存在しないことです。 私がマニュアルを読み、先輩に教わって育ったように、次の人にも学べる道が必要です。しかも、その道は毎回ゼロから探さなくてもよいように整備できるはずです。
二十六歳のアメリカで気づいた「自分が窓口」の限界
新人一年目、二十六歳のときにはアメリカで大型プロジェクトのリーダーを任されました。大量の装置とメンバーを抱え、顧客との英語でのコミュニケーションは、ほぼ私を通して行われていました。装置の立ち上げだけでなく、作業完了後のサポートまで考え、フィールドエンジニアの営業所立ち上げ、現地人材の採用、教育、マニュアル化、データ化も進めました。
仕事を抱えるほど、自分が動けば解決する場面は増えます。しかし、顧客からの問い合わせも、現場の問題も、採用も教育も、すべて自分に戻ってきたらどうなるでしょう。私の時間が尽きた瞬間、プロジェクト全体が止まります。 そこで考えるようになったのが、いかに早く人を立ち上げ、自分が手を離せる状態をつくるかということでした。後に米国赴任中、フィールドサービスの組織変更が進んだ際にも、各地域のキーパーソンを早めに選び、技術支援を現地に残すようにしました。駐在員が帰国するたびに知識まで日本へ戻ってしまえば、現地化は永遠に進みません。
ここで重要なのは、人材を単に配置するだけでは足りないということです。何を判断できるか、どの装置を扱えるか、誰に教えられるか。その能力を見えるようにし、次の人へ移していかなければ、組織図の箱だけが増えても中身は変わりません。
七人で五つの開発プロジェクト。部下を主役にする理由
次世代装置の開発と製品化を任され、再びアメリカへ渡ったとき、現地七人で五つのプロジェクトを抱えていました。開発には予想外の問題が次々と生まれます。当初は仮眠が二、三時間しか取れない日もありました。しかし、私がすべてを解決するやり方では、仕事が増えるほど私が最大のボトルネックになります。
そこで私は、メンバーの能力を把握する指標を設け、基礎を固めるエンジニア、特定領域に強いスペシャリスト、複数領域に対応できるエキスパートという段階をつくりました。上位の人が下位の人を育てる仕組みです。 同時に、部下を前面に出し、それぞれに責任を持たせました。 顧客対応でも技術判断でも、部下が主役になる場面を増やしたのです。
もちろん責任者として、私は装置全体を把握し、緊急時には立ち上げ、保守、運転、トラブル対応まで自分でできる状態を保っていました。しかし、できることと、普段から全部自分でやることは違います。責任者の技術力は、部下の仕事を奪うためではなく、部下が挑戦できる安全網として使うべきです。 その結果、半年ほどで交代しながら休めるようになり、一年後には土日や長期休暇も取れる体制になりました。三台の装置の製品化にも成功し、帰任時には大部分の仕事が日常業務の中で引き継がれていました。
引き継ぎが最後の一週間に行う儀式ではなく、毎日の仕事の中に組み込まれている。これこそ、属人化を防ぐ構造だと思います。
九つの製品を一つの教育構造へ変えた
帰任後に教育部門へ配属されたとき、私が見たのは、製品ごと、講師ごとに教え方が違う状態でした。九つの製品があれば、教材も順番も教える人も異なり、ベテランの経験によって内容が変わります。新人が一人前になるまで長い時間がかかり、異動や退職があれば教育をやり直すことになります。
そこで、エンジニアとして認める能力の基準を定義し、必要性の高い項目に教育を絞り、筆記と実技によるライセンス制度を整えました。教育期間は従来の六か月超から四週間へ短縮できました。 一人で始めた改善を周囲へ広げ、講師を育てる仕組みも組み込み、グループ会社を横断する教育組織へと発展させました。教育関連費は年間十四億円規模の削減につながり、社長賞も受賞しました。
ここで私が強調したいのは、教育期間を短くすること自体が目的ではないという点です。必要な能力を定義し、教え方を統一し、誰が教えても一定の水準へ到達できるようにすることが重要でした。 ベテランが持つ知識を、会社が繰り返し使える資産へ変える。そうして初めて、人が入れ替わっても教育の品質を守れるのです。
航空が教える「人を信頼するから、仕組みで守る」
私は長年パイロットとして飛んできました。航空の世界では、経験豊富な操縦士でもチェックリストを使います。飛行前点検、エンジン始動、離陸前、巡航、着陸、そして緊急時の手順。なぜプロが、分かりきったことを確認するのでしょうか。人間の記憶や注意力には限界があると知っているからです。
これは、操縦士を信用していないという意味ではありません。むしろ、操縦士の能力を本当に必要な判断へ集中させるためです。 手順を共通にしておけば、異常が起きたときも、どこが通常と違うのか分かります。誰かの経験を個人の勘だけで終わらせず、次の人が使える手順として残すこともできます。ただし、航空でもすべての判断を手順書だけで置き換えられるわけではありません。標準を土台に、訓練を受けた人が状況に応じて判断するのです。
私は**「安全とは血で書かれた文字」**という言葉を大切にしています。過去の失敗や事故から得た教訓を、その場にいた人だけの記憶で終わらせてはいけない。手順、訓練、点検として次へ渡す必要があります。会社の品質や顧客対応にも同じことが言えます。失敗した本人が気をつけるだけでは、次の人が同じ失敗をするかもしれません。学びを構造に残して初めて、組織は経験から成長できます。
まず「仕事」ではなく「判断」を棚卸しする
属人化を減らすために、私は三つの順番を勧めます。最初は「あの人しかできない仕事」を洗い出すことです。ただし、仕事の名前だけを書いても足りません。「何を見て判断しているのか」「どこで迷うのか」「例外のとき誰に相談するのか」まで聞き取ります。 熟練者の価値は、手順を知っていることだけでなく、普通と違う状態を見抜く判断力にあるからです。
次に、仕事が止まったときの影響と、代わりの人を育てる難しさで優先順位をつけます。売上への影響が大きい顧客対応、設備の安全に関わる調整、資金繰りのような重要業務から始めるべきでしょう。そして、手順と判断基準を文書化し、実際に別の人がやってみる。文書を作っただけで安心してはいけません。本人以外が実行できて初めて、標準化が進んだと言えます。
最後は、育成と評価をつなぐことです。担当者を二人に増やすだけでは、片方が補助役のまま終わることがあります。どこまでできれば独り立ちなのかを定義し、実務経験を積ませ、教えた人も評価する。さらに定期的に担当を入れ替え、長期休暇を想定して運用してみる。仕組みは紙の上で完成するのではなく、人が使って初めて育ちます。
経営OSとは、経験が人を超えて残る仕組みである
GHOST経営™で私が目指しているのは、社長や一部の優秀な社員の努力だけに依存しない会社です。理念や判断基準があり、仕事の標準があり、教育と評価がつながり、改善した内容が次の標準へ反映される。そうした仕組みを、会社全体の経営OSとして動かしていきます。
例えば、一人のベテランが不具合を解決したら、その原因と判断の根拠を記録する。教育資料を更新し、必要なら工具や設計、点検方法も見直す。次の担当者は、その経験を出発点として仕事ができます。個人が経験したことを会社が学習し、会社が学習したことを次の人が使う。 この循環ができれば、人が入れ替わっても会社は昨日より強くなれます。
もちろん、すべての仕事を完全に代替可能にすることは現実的ではありません。高度な研究開発や新規事業では、特定の人の独創性が大きな価値を生むこともあります。それでも、その人しか分からない部分を少しずつ減らし、周囲が支えられる状態をつくることはできます。属人性をゼロにするというより、事業が止まるほどの依存をなくすことが目的なのです。
経営の本質
「あの人しかできない仕事」は、会社がこれまで育ててきた能力の証です。しかし、その能力が一人の頭と手の中に閉じ込められているなら、会社は未来をその人の健康、在籍、時間に預けていることになります。これは本人にとっても、会社にとっても重い負担です。
私は、優秀な人が休める会社をつくりたいと思います。休んでいる間も仕事が回り、戻ってきたら次の挑戦ができる会社です。そして、ベテランが育てた若手が、やがて別の若手を育てる会社です。そこで初めて、知識は個人の能力を超え、組織の力になります。
経営の本質とは、優秀な人を集めて頼り切ることではありません。優秀な人が生み出した価値を、次の人へ、次の拠点へ、次の世代へと受け渡せる構造をつくることです。 人を信頼するからこそ、人だけに依存しない。人を大切にするからこそ、休んでも辞めても仕事が止まらない仕組みを整える。これが、努力を構造へ変える経営です。
あなたの会社に「あの人しかできない仕事」はいくつあるでしょうか。その数を数えることは、人を疑うことではありません。大切な人と、大切な会社の未来を守るための第一歩なのです。
